デザインの勉強に欠けていたもの。

人間はあるものや考え方を結合する能力を持っています。あるものや考え方を組み合わせることをエディトリアル( 編集 )とも言います。

人間の知的活動のほとんどの部分が、結合作用によっているわけで、人間はすべて生まれながらのエディターであるとも言えそうです。オーケストラの指揮者、仲裁者、司会者、演出家、生け花を活ける人、デザイナーなど、不調和を高度の調和にまとめあげる機能を持つ人たちは、潜在しているエディターシップを顕在させている氷山の一角であるにすぎません。と、外山滋比古さん( 私の考え方は、ほとんどこの方の受け売りです。)が、言っています。

知的活動では、一次的活動と二次的活動を上手く組み合わせる必要があります。デザインするってことは、料理をするようなもので、米を育てたり野菜を栽培するのが、( 肉を育てたり、魚を捕ったりも含まれます)一次的生産で、その材料をもっと美味しく、もっと食べやすくと工夫をするのが、二次的創造です。果実のリンゴやぶどうを生産するのが、一次的生産で、加工してお酒をつくるのが二次的創造です。衣服だって、綿やナイロン、テトロンなど素材を開発するのが一時的創造で、もっときれいなスタイルに見せたいと、形や色、模様などを求めたのが、二次的創造です。建築だって、木や石や人工の素材をつくるのが一次的創造で、そこに設計と施工という工夫を施したのが二次的創造です。

グラフィックデザイン、ビジュアルコミュニケーションデザインが発生した元と考えられるのが、編集・編纂という作業です。短い文章から長いものまで、書くという作業は一次的創作で、それらをもっと読みやすく、理解しやすくするために、文字の書体を考えたり、絵や写真を添えたり、全体の並べ方を調整したのが二次的創造です。

以上のことから分かる様に、一次的創造から二次的創造に移る際に、「もっと、どうにかならないか」という工夫が、なされるのがデザインです。その工夫の先に、カタチやイロやシツカンが登場してきて、微調整がなされます。だから、今よりもっと、デザインを目指す人々は、カタチやイロやシツカンに強くなることが、効き目のあるデザインに近づける方法だと分かってきました。人間に欲がある限り、そして、その問題を解決していこうという意志がある限り、デザインは発展していきそうです。・・・と長くなりますので、この辺りで止めますが。
今回、新型コロナウイルスの件で、少し時間が取れましたので、私の生涯の課題であるデザインについて考えていましたら、デザインについての新しい断面を見つけました。後日、全体像を喋らせてください。