観察→考察→推察→洞察のススメ。
無責任な講評をタレ流していないか。
卒業制作の時季がやってきました。2020年の3月に卒業生を送りだしてからは、3年間ばかり、レギュラーで学生さんと接してはいないのですが、特別講義とか期末試験・卒業審査等にはお声がかかり、学生さんの熱い作品に接しています・・と、近況を報告したいのですが、どうも以前のようには、気分が昂ぶりません。
年間を通して教えている頃は、A君、Bさん、Cくん、Dちゃんのそれぞれの個性とか、弱点とかもこちらで掴んだ上で、卒業してからの3年後、5年後にはこうなるはずだと、現時点の作品づくりにサジェッションを与えてあげれば、そんなに間違いはなかったのですが、普段の出来不出来を知らない学生さんに対しては、的確な講評をするのが難しいところもあるなーと感じています。
目の前の作品に対する均等な評価と、これから先に、どのようにしていけば社会が求めているものに適合するかは教えてあげられるのですが、A君には、Bさんには、Dちゃんにはこういう言い方をしてあげれば理解しやすいだろうという微妙な接点が見つけられないままの講評になっています。
デザインすることは、プライドを持つことだ。
日本人の多くが、大学生のときは「教授の言う通り」、会社に入ってからも、「言われた通り」、新しいことに挑戦するときに使う「前頭葉」が鍛えられていない。と言う説をある人が言っていました。これほど、大上段に構えるつもりはありませんが、どうもこのところのデザイナー予備軍、そして、デザイナーと称している方々は、「自分が解決していくには、こうすればい・・・」というはっきりとした意思がない。
仕方のないことかもしれませんね。「先生がこう言ったから・・」「上司がこう言ったから・・」という処し方が常套手段になっているようです。「オマエが決定しなければいけないとしたら、どうするんだよ?」と、問うと、「デザイナーはそんなところまでやるべきなんでしょうか?」とくる。「そうだよ・・、デザインすることは、問題解決業なんだから・・」と。追っかけると、「これをやりなさいと言ってくれると楽なんですが・・」と。
安心感ややってる感ほど怠惰なものはない。
ある大学の先生がこんなことを言ってました。
「テーマやコンセプトが曖昧なままでは制作させません。ギリギリまで思考することの大切さを学んでもらいます。すなわちそれは僕が、努力や作業量の多さが持つ安心感や、やってる感を信用していないからです。大学生活や卒業制作は長い人生のほんの一瞬の出来事です。だからこそ思考する脳が面白いものを連れてくることを分からせたいのです。全ては思考から始まるのです」。
いい先生ですねー。このメルマガを読んでいる方は、日デの卒業生と思われますが、もし、あなたの身のまわりに、こんな先輩や先生がいらっしゃれば、当分の間、その方についていくのもひとつの方法です。
「努力や作業量の多さが持つ安心感や、やってる感を信用していない」。まったく、同感です。
<校友会 SO-ZO-NE 会長 村中 凱>